私の投書人生
私の投書人生
-無名人-
これは、決して告発ではありません。
私の告白です。
私が二十五歳から二十年以上の歳月、心血を注いできたことが、
すべて無に帰し、反対にそのことで私が責め苛まれているのです。
私は黙して、今までこのことを私一人の胸にしまってきました。
ですが、今多くの人に私の胸の内を明かしたいとおもいます。
あれは私が二十五歳の頃からでしたから、いまから二十六年も前のことです。
私は学校を卒業し東京で三年ほど働いて控折して帰仙しました。
当時、私はノイローゼを患っていたのです。私は十七歳からノイローゼを患い、黙して心の中で一人苦しんでいたのです。
ノイローゼを患い東京での生活は地獄でした。
三年ほど働き、とうとう我優できなくなり
私は精神科へ入院という破目になりました。それで仕事は辞めざるを得なくなりました。今から二十六年も前のことです。
仙台へ帰仙し私は両親の元で引きこもった生活をしていました。社会との接触はほとんどありません。
あの時、私は人とのつながりがほしかったのです。
あの時、私は家へ引きこもり、社会とは隔絶した状態だったのです。私は心が通じたとよろこびました。
朝日新聞は、私のたった一人の友でした。ですが、あの頃の私はすさんでいました。
ノイローゼが昂じて、精神病にまでなっていたのです。私の生活は社会とは隔絶しています。
私にとって友となるのはマスコミから流されてくる情報だけです。朝日新聞社から一枚の葉書をもらい、私は喜びました。
そして朝日新聞社、論説室、天声「人語子」と名乗る人に私は心を許しました。そして私の悩みなどを書き送りました。
私はこんなことを書き送りました。
東京での生活でノイローゼにかかりながらも働いていた時、一人のお世話になったある食堂の「おばさん」の事です。
朝日新聞に投書していた頃は、私は完全に病気の状態でした。
私はお世話になった「おばさん」の事を何度も書き送りました。すると、いつしか「おばさん」が風俗流行語となっていました。
あれは宮城県沖地震があった年でしたから昭和五十四年の事でしょう。私も人並みに男女交際を求めて、あるダンスの講習会へ行ったのです。
そこで、私は最初に入院した精神病院に勤めていた、若い看護婦さんに出会ったのです。
そして朝日新聞社にこのような事を書き送りました。文面はこのようなものだったと記憶しています。
「その若い看護婦さんは、私と親しくなり、いつしか、そっと私の手を握ってくれるまでになったのです。ですが、器用な男が二人の間に入り込み、いつしか、その男も、若い看護婦さんもダンスの講習会へ来なくなりました。」
このような事を朝日新聞社へ書き送りました。するといつしか、高倉健とかいう芸人がコマーシャルで「不器用ですから」などと言っています。これは私が朝日新聞社へ書き送ったことのコピーとしかかんがえられません。
以前、仙台の東北放送の希望音楽会という番組の小野祐子アナウンサー宛てに、このような事を書き送りました。
「私がノイローゼを患って東京で働いていた頃、ノイローゼの私に恋人などできる訳はありません。ですが、私も生身の男です。当然、女っ気はほしくなります。そこで休みの日には、よくキャバレーへいきました。
馴染みになったホステスさんは私が行くと、私の膝枕で眠ってしまうのです。いつもラストまでいました。」このような文面だったと記憶しています。
すると、いつしか八代亜紀とかいう芸人が「心が忘れたあの人も、膝の重さを覚えてる。」などという歌詞の流行歌を歌っています。
この曲はレコード大賞をとりました。これは希望音楽会の小野祐子アナウンサーが、私の書いたものを作詞家に見せたとしか考えられません。
私は彼女に会いに行く為に、この金を使ったら、私の将来はどうなるのだと考え、それでも彼女に会いたくて絶望的な気持ちで、
銀行のキャッシュカードで万単位の金をおろして会いに行っていたのです。このような事は彼等には知る由もないでしょう。
あの当時、今から二十年以上も前の頃、私はすさんだ生活をしていました。心を閉ざし家から金をくすねては酒を買い、喧嘩、無銭飲食、留置場留まり、家庭内暴力を繰り返し、
どうしようもない状態になると、精神病院の鉄格子の中、閉鎖病棟の中へ入る繰り返しでした。これは私が二十代中場から三十代初めまで約八年間の間に八回続きました。
文面の中に「御免伺い申し上げ候」という言葉を使いました。すると新聞の全国紙で、ある食品メーカーの広告に「食欲伺い申し上げ後」とコピーされます。
私の現在の実情はよく認識していたからです。
あの当時、私は精神病を患い、社会では通用しない人間である事を。
ですが、私には心に秘めたものがありました。必ずこの病気は克服する。
いずれ社会へ出てやるという秘めたものを。
私は許すかぎり新聞は読みつづけました。二十九歳の頃には群馬県のある精神病院へ入院する破目になりました。そ
をもった私と健常者との隔たりは、あまりにも大きいのです。私はそのギャップをまともにこの身に受けていました。
病気を背負っている私は、毎日、毎日、自分のあらんかぎりの力を振り絞って死ぬ気で働いていました。
そして、私はキリスト数へ導かれ、祈りが生活の支えとなりました。そして朝日新聞社への投書も再開しました。
その頃から、私の存在はマスコミの向こう側の人間に知れわたったようです。
あの頃、私は毎晩、夢をみていました。例えばこのようなものです。
「何故か、会う人が皆私を避ける。私の顔には限い腫れ物があるらしい。
頭の芯には鈍痛を覚える。私は床に寝かせられている。誰も傍には来ない。
私は優子(私をお兄チャンと慕ってくれた女子高生)を呼んでくれと頼む。
優子は、私のもとに正座をして私を見ている。
私は鈍痛を受け入れる事が必要と考え、それを味わおうとする。ああ死ぬ時とはこのようなものかと感像が浮かぶ。
優子に私の一生を語りはじめる。優子はじっと聞いている。
その時、私の脳裏には過去の出来事が次々と浮かんでくる。
汽車の窓から見えた山の紅葉が実に綺麗だった。」
「韓国と北朝鮮の間を二人の人間が、走り泳ぎながら競争している。
賞金のでるゲームのようだ。私は父と母とテレビを見ており、弟は隣の部屋で寝ている。
私はプールにでも入っているように体がものすごく冷たい。
誰かがポストに手紙を入れていった。それには「もう二度と帰ってこられないところへいったな。」と書いてある。
それを見た時、背筋に寒気が走った。体が急に沈んでいく、
私はプールから引き上げられ、数人の男に抱き上げられた。
呼吸が満足にできない。誰かが人口呼吸をしてくれている。
そのうちに自分で呼吸できるようになった。
だが目は見えない。友人が来てくれたようだが、目が見えないので、一人ずつ私の指を握ってもらい人数をかぞえた。
誰かが三十五人来たと言い、三十五人も来てくれたのかと私は嬉しかった。
そのうちに私は数人の男にかつがれて、どこかへ運ばれてゆく。まだ目は見えない。
だが狭い入り口を通るようすをみて、「ああ、また入院か長い闘いが始まるな。」と思った。
(その時、階下で母が咳をした。私は夢にひびが入り目が聞めた。時計は午前二時をさしていた)」
「私は手術台の上にいる。医者は二人くらいいるようだ。看護婦もいる。私はぐるりと、とり囲まれている。
みんな、あわただしい。私は体のあちこちを縫いあわされている。(その感覚が私にはある)意識は極めて重い。
私は医者に脱糞してもいいかと尋ねる。
医者は「いい」と言う。
私は体の感覚を確かめながら手術台の上で脱糞する。
(なんともいえない安堵感がある)その時、私は生き返ったと実感した。」
私はこのような夢を、五年、十年、十五年、という歳月、毎晩みていました。
そして、これらの夢の内容を朝日新聞社をはじめ各マスコミに書き送っていました。
私のこれらの夢は、五年、十年、十五年という機月、私が病気を背負って、毎日厳しい現実と向き合っていたという証左なのですが。
話は前後しますが、黒澤明などという映画監督が、「こんな夢をみた」などという映画を作りましたが、
黒澤明はマスコミを通して「子供の頃、見た夢をもとに。』などと言っていましたが、私がマスコミに書き送っていた、私の夢の内容を読んでいたのは間違いありません。
また小説家、會野綾子には私がNHKに書き送った、私の夢の内容を、そっくりそのまま書き写され、発表されました。
私が書き送ったことは、ことごとくコピーされました。
例えば朝日新聞社に「心の病」と書いてやると、「心の病」という言葉が言いふらされます。
「情念」などという言葉を使えば、風俗小説の広告コピー文に「新しい情念の歌」などと使われます。
桜井洋子アナウンサーに「自然体」などという言葉を使うと「自然体」が風俗流行語となり、
今から十年以上も前、私ももう「おじさん」だと書いてやると、「おじさん」が風俗流行語となります。
毎日新聞、論説室に「ピュア」などという言葉を使って投書すると、「ピュア」などという題名のテレビ番組が作られ、
ビール、タバコ、ウィスキー、洗剤、カレールー、サラダオイル、マヨネーズ、目薬、頭痛薬など、ありとあらゆるものに「ピュア」という言葉が使われます。
私を「お兄チャン」と慕ってくれる女子高生がいると書いてやると「お兄チャン」が風俗流行語となります。
挙げ句の果てには、私が投書する度に、ワープロ購入のダイレクトメールが送られてくる始末です。
このような言葉が言いふらされている時
私の現実生活は極めて厳しいものでした。精神病を背負って、現実社会の中で働いていたのですから、
何度も何度も挫折し、そして、その度に立ち上がり、その繰り返しでした。
そして何とか社会復帰を果たし、社会の底辺ですが、恒常的に働けるようになりました。
私は喜んで向かえ入れられると考えていたのですが、答えは全くの逆でした。私は完全な門前払いを受けたのです。
と手紙を差し上げました。ですが返事は全くありません、ですから、私は彼等には私に会う意志は全くないのだとわかり、
私の方から「あなた達とは綺麗サッパリと縁を切ります。私には一切つきまとわないで下さい。」と書いてやりました。
そのような最中にも、私の書き送ったものはコビーされます。
某食品メーカーの新聞の一面広告のコピー文。「武骨にして愛」「ウワー大きい」「まかせなさい」なる言葉は私がNHKの各アナウンサーに書き送った言葉の全くの書き写しです。
私はおかしいと考え、東京のNHKの広報に問い合わせました。「NHKは投書されたものを外部に漏らすのですか。」と、すると電話口のNHKの広報の人間は「投書されたものを外部に漏らすのは法律違反ですから訴えて下さい。」の一言です。
私はまさか、こんな返事が返ってくるとは思いませんでした。私は黙って善意を信じて二十年以上の歳月、マスコミに投書していたのです。
この二十年以上の間に私が使った切手代だけで十万円は下らないでしょう。私はそれだけ自分を賭けていたのです。
二十年以上の機月の私の期待は完全に裏切られ、私は完全に見捨てられたのです。
彼等は最初から法律違反の上にあぐらをかき、私を食い物に金儲けをしていたのです。
私は何とか彼等とは綺麗サッパリと縁を切りたいと考え、その旨を何度も書き送りました。
ですが、どこまでも私の書き送った言葉は言いふらされます。
私も我慢ができなくなり、「善悪の識別、ものの道理、筋道の見究めがつくのか。」とNHKへ書き送りました。
するとNHKのテレビとラジオでは朝から晩まで日がなー日「ミキワメ」「ミキワメ」とわめいています。
そのうちに、日本経済の動向から、為替と株の値動き、野球のボールの球筋から、相撲の取り口、総理大臣の答弁までが「ミキワメ」です。
しかし、いくら彼等が「ミキワメ」と言っても、彼等にそれだけ透徹した視線は持ち得ないのです。
彼等にとっては自分が得をすることが善であり、損をすることが悪なのです。私の厳しい現実体験に裏打ちされた信仰の善悪の概念とは全く相容れるところのものではないのです。
その頃には、私は病気を克服して、何とか一人前に働けるまでになっていました。
私は彼等とは縁を切って当初の目的である結婚まで何とか持っていこうと考えました。
ですが毎日マスコミでは「おばさん」「おじさん」「心の病」「真撃」「自然体」「お兄チャン」「ピュア」「ミキワメ」などと騒がれ、
私のせっかく快癒した病気が再発してしまいました。
私は何度マスコミの向こう側の人間に、「私にはもう一切つきまとってくれるな。極めて迷惑だ。」と書いてやったかわかりません。
それでも、マスコミの向こう側の人間はどこまでも私につきまとってきます。私につきまとっていれは、楽に大金が手に入るからです。
私はさんざん責め苛まれ、社会復帰を果たしたのに仕事も群めざるを得なくなり、何とか結婚まで持っていこうという私の夢は無残にも砕かれてしまいました。
そして私は、再び治療の為に毎日病院へ通わねばならない破目に陥ってしまったのです。
精神障害者のこの私が、黙って一日一日と五年、十年、十五年の歳月をかけて積み上げてきたものが、すべて彼等の為に崩されてしまったのです。
ですが、このようなものは結果的に、私にはとても言論機関とは考えられません。
これらは、ただの正体のない幽霊みたいなもの、存在意義のない風俗にすぎないのです。
彼等がいくら私のことばを猿真似しても、それだけの良心、倫理性、費任性を有しているのは私であって彼等ではないのです。
マスコミそのものを含め、マスコミの向こう側の人間、誰一人、自分の言葉に責任を持てる人間はいないでしょう。
マスコミそのものを含め、マスコミの向こう側の人間の考えていることは、何でもいいから世の中を馬鹿騒ぎさせろ、そうすれば金は自分たちに流れ込む。
それだけなのです。そして、このマスコミ社会にあぐらをかいて、大金を稼いで偉くなっているのは、マスコミの向こう側の一握りの人間だけなのです。
私の書き送ったものをコピーした人間は莫大な金を稼いだでしょう。
しかし精神障害者のこの私が、十七歳から三十有余年、地位も誉れも富も健康も恋愛も結婚も犠牲にして、
どれほどの悲しみ、苦しみ、致しさ、厳しさを味わってきたかなど、決して彼等には知り得るところのものではありません。
マスコミの向こう側の人間は、私の犠牲の人生を食い物にして金儲けをしていたのです。私はマスコミ社会の欺瞞性を見抜きました。
一切信じるに面しない体たらく、こんなものを鏡にしているから、世の中は退廃していくのです。
私もいずれ、言葉で身をたてようと考え、病気を背負いながらも、寸暇を惜しんで言葉の修行をしてきました。
私の言葉は一言一句、私の実存を賭け、私の意思を込めて書いたものです。
ですが、私の書いたものは、著者である私の人権も人格も人間の尊厳もないがしろにされ、一言一句、
何の苦労も知らない、全くの赤の他人に食いものにされ、金儲けの道具とされ、私は完全に使い捨てにされて終わりです。全く無礼な話です。
私はいくら社会復帰を果たしたといっても、精神病を背負い、社会の底辺で働いている身です。
私の収入などたいした額ではありません。
三十有余年の歳月、精神障害者として、言葉にならない労苦をしてきたのは私です。
決して彼等ではないのです。
マスコミの向こう側の人間は何の労苦もせずに、私の言葉を書き写すだけで莫大な金を手にしてきたのです。
全く不条理なはなしです。
私には十七歳から三十有余年の歳月、労苦に裏打ちされた、私の物差しがあります。キリスト信仰に根ざした、私の世界があります。
私はもうこの風俗社会とは一切相容れないのです。
彼等がいくら私の言葉を真似しても、一言一句、すべて嘘になります。
もうこのような無礼な真似は一切やめてもらいたいと考えているのです。
これは、決して告発ではありません。
私の告白です。
私が二十五歳から二十年以上の歳月、心血を注いできた
ことが、すべて無に帰し、反対にそのことで私が責め苛まれているのです。
私は黙して、今までこのことを私一人の胸にしまってきました。ですが、今多くの人に私の胸の内を明かしたいとおもいます。
この文書は今から22年前に書いたものです。私はマスコミ社会からこの三十有余年の飲用 連日地獄を見せつけられてきました。
私は精も魂も尽き果てました。ここに多くの人に私の胸の内を知っていただきたく思います。
思い起こせば今から五十六年も前に私が精神的な病に陥ったのもNHKラジオの全くデタラメナな放送に惑わされたためでした。
それだけマスコミの情報を鵜呑みにするのは危険です。マスコミは事実を事実として報道しません。
事実を自分たちに都合がよいように、自分たちに金が流れてくるように歪曲してから出てないとタレ流しません。
こんなものは決して真実の報道とは言えません。マスコミ、マスコミ関係者の考えていることは世の中をたぶらかし食い物にして自分たちの金もうけを企んでいるだけです。
私の書いたものはことごとくコピーされマスコミ、マスコミ関係者の金儲けの道具とされました。
今から四十年以上も前に「特別企画 ぶっつけ本番人生ゲーム」などと書き送ると、いまだに「特別企画」「ぶっつけ本番」などと騒いでいます。
最近では「進化」といえば「進化」が言いふらされ「自己肯定感」と書くと「自己肯定感」と言いふらされます。
私の書いたものはことごとくコピー、金けの道具とされ私は完全に使い捨てにされて終わりでした。
キリスト信者の私から見れば実にこの世は罪の世です。
実に私は今から五十年もまえにNHK ラジオ放送の全くデタラメの放送によりこの世の罪を背負わされ贖罪の人生を歩んできたのではないのですか。
マスコミ、マスコミ関係者はこのような私の書いたものをなんの労苦もせず、安直に猿真似、コビーするだけで莫大な金を稼いできたのです。
全く道理筋道に反することです。
彼らの世界には有り余るものがありますが、彼らは何一つ私に与えようとしません。
私の言葉は一言一句私の稼ぎになって当然ではないのでしょうか。それだけの労苦をしてきたのは私であって彼らではないのです。
彼らが私に金を稼がせるのはいとも簡単なことです。金を払って私から私の言葉を買えばいいのです。ですが彼らはそんなこともしません。
実にこの四十年以上の歳月、精神障害者である私の精神性がマスコミ社会を支えてきたのではないでしょうか。
私はキリスト信者です。決して糾弾するようなことはしません。許しの準備はいつでもできています。
ですが、そのためには出会いが必要です。
私はマスコミ社会の裏も表もよくわかりました。私はキリスト信者です、私はキリスト者として明確に自己を確立しています。
決してマスコミ社会、この風俗社会に埋没するようなことはしません。
日本のマスコミ社会がこの体たらくでは、決して一般視聴者、読者のためにはなりません。
ここに多くの人にこの事実を知ってほしく思います。
-無名人-